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「努力」ではなく「楽しい」を原動力に

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前回の記事の続きです。

「地頭」も「興味」というモチベーションに支えられている。
というのが青ティの仮説。

だから、「特に幼少期・学齢期の教育では、学習に対する興味を喚起すことが最重要」
というのが青ティの教育観。

この観点で中学受験を見ると、危ういと思う箇所がいくつかあります。

上記の私の考え方、つまり学習において子供の「興味」を喚起することを最優先する観点では、塾での勉強時間、家庭での勉強時間、(加えて、本来は学校での勉強時間)それらの時間において「学習の楽しさ」に配慮されているかが最重要だと思っています。

その点でみると、塾とか学校は先生の力量にもよりますが、結構楽しい時間だったりします。
当然のことながら、プロが教えていますからね。

では、家庭学習はどうか?

ここはご家庭の環境などにも大きく左右されると思いますが、親がついて勉強するにしても、自主的に取り組ませるにしても、この時間の楽しさってやや物足りないことが多いと思います。
まあ、当たり前ではありますけどね。
多くの子は授業や講義など、人とのコミュニケーションの中で新しい知識への喜びを見出していることが多いと思います。
でも、家庭学習にそこまで人的な労力はかけられません。

これについては、チリ太郎の中学受験を振り返ったとき、私的にも反省すべきことが多々あります。
例えば、子供があまりにも家庭学習をしないのでつい、

青:「おとさんは会社に行くのが仕事。チリ太郎は学生の間は勉強するのが仕事だからね」

当時はこんな説明で間違っていないと思っていました。

しかし今にして思うのは、どんなに勉強時間が少なくなろうと、

青:「勉強、楽しいからやろうよ。好きな教科からでいいから」

と言うべきだったかなと思っています。

かなりのやせ我慢ですが、「勉強って楽しいからやるのだ」という姿勢を崩すべきではなかったなぁと反省しています。

あと、私はこういう説明はしませんでしたが、

・努力とその結果としての成功体験
・目標に向かって頑張ることの重要性

みたいな観点で「勉強せよ、努力せよ」と説得する方もいらっしゃいますよね。
(私もそんな昭和テイストの中で育ちましたが)

これなどはもう、勉強すること=努力と置き換えられてしまっているので、そもそも私の教育観とは異なった声掛けとなります。

確かに、中学受験って結果として膨大な勉強をこなすこととなります。
しかし、それを本人が後から振り返って「努力した、頑張った」と感じるのはよいのですが、取り組んでいる過程で周囲が「努力だ」と説明するのはミスリードに繋がるかなと思います。

私的に心配するのは、こうした誤った声掛けの中で受験勉強生活を3年も4年も続けたら、小学校を卒業する頃には少なからず「学習に対する負のイメージ」がついてしまったり、必要のない経験(燃え尽き、自信喪失など)をさせることにならないかということです。

楽しいから勉強した。楽しくは思えなかったからあまり勉強できなかった

というのと、

努力したからよい成績がとれた。努力できない人だったから成績が振るわなかった

というのでは、その子の人格的な評価が変わってきてしまうと思うのです。
当然、本人の受け止めも変わってきます。

たかが成績、たかが受験結果です。
そんなことで大切な我が子の人格を否定するような総括をしてはいけません。

そういう不幸から子供を守るためにも、親は

「勉強は楽しいからやる。楽しんで勉強する」

という姿勢を崩すべきではないなと思うのです。

そして、その理想と子供の気持ちとの間にギャップがあった場合。(つまり、子供が全然勉強に興味を示さない場合)

そういう時こそ、時間と手間をかけ、その子の楽しいと思うことと学習との関連性を見つけてあげるべきなのかなと思います。
何と言っても、そのような寄り添い方は「親にしかできない」ことなのですから。

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