夏になると中学受験で言うところの
「夏は天王山」
というフレーズを思い出します。
中学受験の記憶はかなり薄れているものの、「あの時間は濃密だったなぁ」という思いだけはしっかりと残っています。
ただ、今から振り返ってみると、「なぜあんなに必死だったのかな」という思いもあります。
熱に浮かされるとでも言いましょうかね。それこそが中学受験の特別なところなのでしょうけどね。
チリ太郎が6年の夏休みの頃を思い出すと、得意だった算数や理科はある程度計算できる域にきていたと思いますが、とにかく国語の記述が書けなさ過ぎて、心配で仕方ありませんでした。
何せ、国語の答案用紙は記述問題のスペースが広いですから、そこが書けないと「半分以上白く」見えてしまうんですよね。
私はどちらかと言えば呑気に構えていたほうだと思いますが、受験期間中は常に不安を感じていました。やっぱり、「できない部分」はどうしても目についてしまいますのでね。
先日、チリ太郎の中学2年1学期の成績の記事を書きましたが、チリ太郎、小学生の頃は常に白紙だった記述問題について、中学生ではしっかりと埋められるようになってきています。
中学受験で鍛えられた成果という面もあると思いますが、私はどちらかというとその子なりの成長、つまり、時間が解決したのだと思っています。
「ずっとできないままの子なんていない。いつかできるようになる」
ただ、それが10歳かもしれませんし、12歳かもしれませんし、15歳かもしれません。
それを親や先生が「待つことができるか」なのですよね。
受験ということを意識すればするほど、成長を待つ余裕というのは無くなっていきます。
中学受験に負の側面があるとすれば、そういう点かなと思います。
つまり、偏差値を上げることにばかり執着しすぎて、時でない時に過度な努力を強いるというのですかね。
中には、「課題克服」という名の「促成栽培」が功を奏する場合もあるかもしれませんが、自然に任せていてもいずれ伸びてくる能力なのであれば、「今伸びろ、今伸びろ」と殊更に意識させるのは実に不幸なことです。
チリ太郎が第一志望の学校に合格できたのは彼の実力ですが、私は親として、チリ太郎の受験に自然体で過度の無理を強いることがなかった点だけは「親の勝利」だと思っています。(今思うと、それだけが親として唯一自信をもって言えることです)
「そんな悠長なことを言っていたら、希望の学校に合格できない」
というご意見もあるでしょう。
でも、そんな方にこそ注意喚起が必要だと思っています。
上を目指し、上ばかり見ている人は、結果が逆の方向に出たときに負のスパイラルに陥りがちです。
一番大事なのは、「偏差値を上げて偏差値の高い学校に合格すること」ではなく、「子供の実力に合った学校を複数選び、順当にそこに入れてあげること」だと思います。
そのことに気づければ、2月本番において「究極の仕上がり」なんて必要ないのです。中学受験は全ての人が「頂点」を目指しているわけではないのですから。
そんなことを考えると、「天王山」というフレーズが誤解の元なのかなと思います。
「目標を再確認する夏」
なんてどうですかね?
・どんな受験にしたいか?
・何をもって、どんな結果をもって「良し」とするか?
・勉強以外に「今」やっておきたいことはないか?
など、自身の受験、我が家の受験を再度整理するのです。
最後の1年だからと闇雲に突っ走るより、折々で作戦会議を入れること。
6年生の場合は本番まであと半年ほどですが、実際、半年もあれば如何様にも変化できます。