私はあまり好きな言葉ではありませんが、中学受験界隈ではよく「地頭が良い」という表現が使われます。
漠然と使っている方が多い印象ですが、明確な定義が無い言葉なのでそれもやむを得ないところです。
では、改めて「地頭が良い」ってどういう状態なのか?
・記憶力がある
・理解力がある
・応用力がある
・思考の柔軟性がある
・思考の持続力がある
いろんな要素、ワードが出てくると思います。
私はもう少しシンプルに、
地頭=記憶力+理解力
というふうにイメージしています。
そして、その中で「理解力」という言葉に少し拘りがあります。
拘りというのは、私が勝手に「こうだ」とイメージしているものがあるということです。
〇青ティの理解力に対するイメージ
「一を聞いて十を知る」という諺があるように、
・1つの例から全体像を把握するような力があるか
・1つの例から関連する事項まで考えを巡らせることができるか
そういう観点で高低を判定すべきかと思っています。
言われたことの意図を理解する力に加え、類似例に発展させていく際の応用力、想像力、柔軟性などもその能力の範疇に加えています。
結果として理解力が高い子というのは、諺どおりになるのですね。
1、2、3と順番に教えていかなくても、1を理解した時点で2や3は「こうなるのではないか?」とうっすらとした予測を立てている。つまり、脳内で勝手に予習しているのです。
そして、10までの全体像をイメージするところまで自分なりにたどり着けるということです。
以上、青ティの妄想を説明してきました。
このしょうもない説明はなぜ必要なのか?
今回の記事で私が一番言いたいことがあります。
「記憶力」や「理解力」は脳のスペック、恒常的な能力ではなく、「興味」というモチベーションに大きく左右される。
という仮説を持っています。
それは即ち、
「地頭」も「興味」というモチベーションに支えられている
ということです。
なぜそう思うのかというと、チリ太郎です。
チリ太郎の中学受験を伴走する中で、私は感じました。
チリ太郎って、昔から賢いなって思うところが多々あったのですが、いざ受験勉強を始めてみると「理解力は教科によってかなりの差があった」のです。
もし、理解力というものが脳のスペックのみを指すのであれば、そうした差は大きく出ないはずなのです。しかし、どんな子にも「理解が進みやすい分野」と「理解の進みが遅い分野」がありますよね。
その差を「得意分野」「苦手分野」と総括する人もいると思いますが、私は根源的な部分で「興味の差」なのだと想像しました。
そして、先に述べたように
「地頭」も「興味」といモチベーションに支えられている
という仮説に至ります。
この仮説の重要な点は、「地頭」を「先天的な能力」と捉えるのではなく、「興味」というモチベーションによって浮き沈みするものだと捉えている点です。
ですので、ある時点において地頭が良く見えたとしても、それが一生続くわけではありません。逆に、ある時点において凡庸に見えたとして、その子が地頭を発揮する環境が整っていないだけかもしれません。
その大きな要因は、「興味」の強さだという仮説です。
「やる気スイッチ」という表現もありますが、学習におけるスイッチはその分野における「興味」だと思っています。
ですので、特に自分で自分の心をコントロールする術を持たない幼少期・学齢期には、学習に対する「興味」を喚起することが一番重要なのではないかと思っています。
逆に、それさえうまくできていれば、学習の進度というのはあまり苦労しないはずだというのが私の教育観です。
そうした教育観に基づいて現代の中学受験を見ると、危ういなと思う部分もありますよね。
次の記事では具体的に中学受験で危ういと思う例を書いてみたいと思います。