先日、妻から聞いた話です。
妻はチリ太郎がお世話になった保育園の先生に近所でバッタリと出会ったそうです。
その先生がチリ太郎の学年の担任をしていたのは一時的でしたが、今では系列の園の園長先生になられたとのこと。
我が家は昨年の8月に引越しをしましたが、チリ太郎の出身園や新たにできた系列園の比較的近くに転居したので、「もしかしたら先生方にお会いするかもね」なんて話していたのです。本当に出会うとは…。
青:「それで、先生は何かおっしゃってた?」
妻:「うん。まあ、チリ太郎が中学受験をしたということはよく知っていて、『チリ太郎君、素質が開花してすごい学校に入ったそうですね』って言ってたよ」
青:「同学年で下にお子さんがいるお母さんもいたから、うちに限らず情報は伝わってるみたいね」
妻:「チリ太郎本人はもう先生のことも覚えているか危ういけど、大人の方は当時のチリ太郎のことを結構覚えていてくれるものだね。ああだった、こうだったと」
チリ太郎が保育園児の頃のエピソードで保育士さんによく言われるのは、
・トランプの「51」というゲーム(同マークで合計51にした人が勝ち)で自ら計算係をしていた。同世代の子では難しい二桁の暗算が正確で、しかも計算が速かった。
・アンパンマンのおもちゃで覚えた英単語を教えてくれた。(先生が『これは英語でなんて言うの?』と聞くと、凄い発音で答えてくれた)
みたいなことです。
まあ、英単語とか駅名とか電車の名前とか、そういうのはあっという間に忘れて当人も覚えていませんが、数字に強かったのと記憶力が良いところは今も変わらないですね。
それで、妻から話を聞いて感心したのは、先生がおっしゃった
「才能が開花して」
という表現です。
とても感心しました。
決してチリ太郎を褒めていただいたから言うのではありません。
その言葉のチョイスから、保育士さんが子供を見る視点が垣間見えるなと思ったからです。
正直、4歳や5歳の子供を見て、その子がどんな中高生になり、どんな大人になるかなんて予測することはできないと思います。
一方で、4歳や5歳の外見を取り繕うことを知らない子を見ると、個々の違いなどに気づくこともあるかもしれません。もしかしたら、それがその子の個性や、才能の片りんを示しているかもしれません。
そのように個々が持っているものが、社会の中でどう成長、変化していくかはその子の意思や生活環境によるのだと思いますが、その花はいつか咲くのだという考え方ですね。優れているとか劣っているとかではなく、誰しもが何がしかの才能を持っていると考えているから「才能が開花した」という表現になるのだと思います。
多分、良い保育士さんというのは、そういうフラットでポジティブな視点で子供たちを見ているのだろうなと思いました。
このように、現代の子育ては個々の個性を尊重して「見守る」という方向性にシフトしているように思います。
そう言うと、日本には伝統的に「躾」という文化がありますが、その面は疎かになっていないのかと問う人がいるかもしれません。
この点、私の経験上、
やり方が異なっているだけで、現代の保育士さんは子供の個性を尊重しつつ、「躾」的な要素もしっかりと対応していると思っています。
一見両立しない考えのように見えますが…、
つまり、
目に見える、耳に聞こえる部分は「躾」的な見方をしつつ、目に見えない「可能性」みたいなものは、芽を摘まないように、必ずあるはずだと信じて「見守る」みたいな感じでしょうか。
昔のようなスパルタ式や罰を与える方式は排除され、必要なことは粘り強く言い聞かせる、機を見て助言するという方法を取りますよね。本当に頭が下がりますし、親も見習わなくてはという気になりますね。
保育園から引継ぎを受けるとき、「ああ、保育士さんが粘り強くやっているのに、親が安易に強権発動しちゃ駄目だ」と思ったものです。
チリ太郎がお世話になっていた保育園、現代の保育士さんはそんな感じにうまくやられているように感じました。
そういう意味ではレベルが高いですよね。
チリ太郎はよい保育士さんたちにお世話になって、本当に運が良かったと思います。