中学にしろ、高校、大学にしろ、受験に臨む本人及び親、指導者が最も意識しなければいけないこと、それは、「時間の使い方」だと思います。
日本の受験制度というのは、限られた時間の中で、相応の知識の習得と、応用力を試されるわけで、基本スペック(=理解力・記憶力)を度外視すれば、極力効率良く勉強をした人が合格を勝ち取る制度と言えます。
一昔前に、受験競争の過熱による詰め込み教育が云々と言われた時代がありましたが、基本的に、日本の受験システムは、大学ですら特定世代(現役受験生)を意識して実施されていますので、カリキュラムを変えようが、試験方法を変えようが、一定期間に集中的に勉強する(=詰め込みとなる)ことは避けられない気がします。
さて、なんでこんな話を始めたかと言いますと、日曜日のチリ太郎の作文学習に付き合ってみて、少し気づきがあったからです。
Z会6月の作文学習のテーマは「詩」についてですが、単純に中学受験ということだけ考えれば、
「詩を書く能力って必要かな?」
「それに何時間も時間を割くのなら、別の勉強をした方がよいのでは?」
という疑問を持たないでもありません。
しかも、そんな微妙な学習に標準学習時間の3倍も4倍も時間をかけているのです。
もしかしたら、学習テーマなどに応じてバッサリと、「これはやらなくてよし」と切り捨ててしまうご家庭だってあるかもしれません。
しかし、私はチリ太郎が2時間半かけて最後の最後に詩を完成させたとき、なんだかとても嬉しかったんですよね。チリ太郎も晴れやかな顔をしていましたので、同じ気持ちだったと思います。
思い起こしてみますと、チリ太郎は4年生まで、学校での授業で、作文、感想文、物語づくり等、この手の文章を書く課題は、全て家に持ち帰ってきていました。学校の授業の時間内ではやりきれていなかったんですね。
しかも、ほとんど白紙の状態で持ち帰ってきていましたので、この分野の学習は、学校の進度にすら追い付けないレベルなのだと感じていました。つまり、部分的に落ちこぼれている状態ですね。
チリ太郎は5年生になってから、毎日勉強するようになり、私もそれを見守ってきました。
勉強の成果を試す意味で、中学受験などに挑戦してくれたらいいなという、私のブログを始めたときの気持ちは変わりません。
しかし、一方で、「受験なんてどうでもよい」と思っているところもあります。
この時機の子供が学習をすることの意味・意義として、「受験よりももっと大切なもの」があるはずだと。
では、その「受験よりももっと大切なもの」とは何か?
それは、「知らなかったことを知り、できなかったことができるようになる喜びを、純粋に味わうこと」です。しかも、それに際しては時間の縛りにとらわれてはいけません。常に、自分のペースで成長していけばよいはずです。
ある意味、これは、受験という限られた時間の中で結果を出すイベントとは対極に位置する考え方かもしれません。
しかし、塾も学校も完全に受験というイベントに引っ張られて、時間の制約の中で学びの効率性を追求する現在、親だけは、自分の子供の成長に沿った立場をとるべきかなと思うのです。
そんなわけで、私の心の中で、大切にするものの優先度が少しはっきりした日曜日でした。
もちろん、これからも、中学受験のことは意識しつつ、それに捕らわれすぎることなく、チリ太郎の成長を見守っていきたいなと思います。