前回の記事は修学旅行における調べ学習についてでしたが、その結果は論文のような体裁のレポートにまとめられることが多いと思います。
以前、「チリ太郎のレポートを偶然見たら、よく書けていて驚いた」というような記事を書きましたが、関連する流れでその後日談から始めたいと思います。
ある日の会話
青:「でもさ、チリ太郎の前に見たレポート、すごくよく書けてたから先生に褒められたんじゃない?」
チ:「ああ、あれ、先生に『内容が薄い』って言われた…」
青:「それはなかなか…、厳しい評価だね。おとさんはよく書けていると思ったし、内容も薄いとは思わなかったけどなぁ…」
チ:「グループで交換してチェックしてもらったときも、そんなに悪い意見はなかったんだけどなぁ。もう、どの水準が求められているのか全く不明だよ」
青:「まあ確かにね。多分、先生としては、出来の良し悪しに関わらず、改善点を指摘するようにしているのだと思うよ。『中2でこの出来なら、まあいいでしょう』なんて評価をしたら、もう成長しないわけだからね」
チ:「そうかなぁ」
正直、私の中学生の頃のことを思うと、読書感想文程度の文章は書いた記憶がありますが、チリ太郎の学校のように頻繁に「レポート」というものを提出するようなことはありませんでした。
レポートの記載は客観的でなければいけませんし、終始学術的な記載が求められるので、自分の感想を書くのとは大違いです。
もう、そのことだけで随分レベルが高いことのように思えてなりませんけどね。
ただ、チリ太郎の話を聞く限り、先生の指導は生徒のレベルに応じてさらなる努力を求める方向性なのでしょう。
これはこれで、凄いことです。
本当に、私の記憶にある中学生のレベルを相当超えている印象があります。
チリ太郎の学校は、生活指導に関しては折々に学校から発信があり、決して「自由・放任」という印象はありません。
一方で、学習に関しては、課題などは出るもののそれらの提出などについてはあまり厳しい印象がありませんし、どちらかというと「自由」に近い印象です。少なくとも、「管理型」って感じじゃありませんね。(評価にはしっかり反映されますが)
各教科の指導内容は担当の先生に委ねられており、教科担当の先生は皆「あまりレベルを下げるつもりはない」感じがヒシヒシと伝わってきます。
学習について「管理型」ではないため、子供まかせにしていると、ちょっと取り返すのが難しくなる怖さはあります。
まあ、チリ太郎の学校は授業参観など、授業の様子を見学する機会がないので、そうしたちょっとした子供との会話の中から、学校の様子を想像するしかないわけです。
そこは親として感性を研ぎ澄ませていないといけないところです。
ちなみに、そうした視点では、
先のチリ太郎と私の会話の中でチリ太郎が言った
「どの水準が求められているのか全く不明」
って発言は、多分、チリ太郎の言葉・感想ではなくて、
他の生徒が発した言葉をチリ太郎自身が気に入って使ったのだと想像しました。
何となく、チリ太郎のワードセンスではないなという勘みたいなものです。
想像100%ですが、
先生の厳しい評価
それに対する生徒のリアクション
クラスの生徒たちの生き生きとした感じが見えてきます。
そうした中で、チリ太郎も感化され、自分の考えが再構築されていったりしてくれればよいなと思っています。