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心境の変化と自分への気づき

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夏の甲子園が終わりました。
決勝戦は仕事のためじっくり観戦できませんでしたが、まあ、思っていたより点差が開いたのは勝負のあやというやつでしょうかね。

少し前の記事で「慶応はよいところまで進むかも」と予想していましたが、チームとしての力は仙台育英の方が上かなと思っていました。
慶応が勝ち進む中でマスコミの報道が増え、その反動でアンチが発生し… なんていう、甲子園ならではの外野の(余計な)盛り上がり現象もありましたが、チームとしては両校ともよく指導が行き届いていることが伺え、その点でも決勝に相応しい素晴らしい戦いだったと思います。

実は私、よく野球のことを記事にするものの、高校野球はあまり好きではありませんでした。
プロ野球は好きで毎日観戦するのですが、高校野球は何となく視聴、プロに入りそうな選手がいるときは注目という程度でした。
それが、今大会を機に少し自分の考えが変わりました。

別に今大会この試合を見てとか、そういうきっかけがあったわけではありません。
自分が体調を崩して、寝床で暇だからテレビ視聴をしていた中で自分の考えが勝手に整理されたというのですかね。

本当にどうでもよい個人的な話ですが、私の考えがどのように変わったのかを以下にまとめてみたいと思います。

高校野球が好きでなかった理由(1)
「プロと比べて技術的に未熟。また、実力差が顕著な試合があること」
これはプレーしている側に全く責任がありませんが、事実ではあると思います。
ただ、今大会を観戦している中で、高校生の技術レベルは私が記憶していた頃よりも向上していると実感しました。
また、自分自身が「高校生ならこのあたりまで」という目で見られるようになったこともあるかと思います。
そういう目で見ると、その年代にしていは素晴らしいプレーが随所にあると気付けますよね。

高校野球が好きでなかった理由(2)
「高校野球ファンの熱量に若干引いてしまう」
よく、「プロ野球は見ないけど、甲子園は毎年見る」という方がいらっしゃいます。また、「高校生のひたむきなプレーを見ていると、それだけで涙が出てしまう」なんていう方もよくいらっしゃいます(女性に多い印象)。
私は野球というスポーツが好きで、それ以外の脚色された部分にはあまり興味が無いため、「所謂『高校野球ファン』とは観点が違うなぁ」と感じていました。
そして、高校野球というのは、そうした「高校野球だけを応援している人」がメインで楽しめればよく、私のような「野球ファン」はサブ的な位置づけでよいという決めつけをしていました。
しかし、私も年を取り、「変な拘りを持たずに楽しんで見たららよい。人がどういう姿勢で観戦しているかなんて気にする必要がない」と思えるようになったのでしょうかね。又は、私も前者の「高校野球ファン」に気持ちが近づいてきたのかもしれませんね。

高校野球が好きでなかった理由(3)
「爽やか球児、部活を通じた教育みたいな建前的な部分が受け入れられない。疑ってしまう」
「高校球児=爽やか」という印象付けがされていますが、「実際にはそんなことないだろう。裏では何してるかわかったものじゃない」と思っていました。
また、「『教育の一環としての部活動』なんていう建前なんて、実際の現場ではほとんど意識されていないだろう」ということも思っていました。
ただ、今はこう思います。
「目に見えない部分を信用しないのは自由だが、もしそうするのであれば、目に見えない部分を(悪い印象の方に)決めつけることはすべきではない」
私自身は直接高校の部活動に携わる身ではないため、ほとんどの部分は報道などを見聞きした上での「想像」であったり「先入観」であったりするわけです。
人の気持ちはその人の自由なのですが、「公平な人、フェアな人」でありたければ、「想像の仕方」「先入観の持ち方」に偏りを持たせない姿勢が必要だと思いました。

高校野球が好きでなかった理由(4)
「スポーツバカが好きではない。部活しかしていない学生が認められない」
私自身は部活も勉強もソコソコやって、両方ともソコソコという学生時代でした。
高校以降の人生の中で数々のスポーツバカと出会い、「本当にこういう非常識な人は嫌だなぁ」と感じたため、高校野球のような「野球漬け」の生徒を応援する気持ちが湧かなかったのです。
将来、プロ選手になることが確実な人はともかく、それ以外の生徒は「学生たるもの文武両道を心がけるべし」みたいな考えもありましたね。
一言断っておきますが、私の思う「文武両道」というのは個別設定の基準なので、偏差値の高い学校が甲子園に出場したぐらいでは文武両道とは思っていませんでした。

今はこう思っています。

「青春の時間の使い方はその人の自由。勉強ばっかりしてもよいし、スポーツや趣味に走ってもよいし、個人なりにバランスをとってもよいし、さらに言えば、充実していなくたってよい」
「甲子園ぐらい盛り上がるイベントがあったら、小中高の期間ぐらい『野球に賭けてみる』みたいな青春があってもいいよな」

そんな心境です。

個人的にはこの4つめの理由が一番変わったところなのですよね。

私は自分が青春を過ごす中で、「こういう同年代は嫌だな。話が合わないな」という思いのままここまできました。
ただ、「人生って思ったより長い」ということを感じ、「人生が長いのであれば、青春時代ぐらい好きに過ごしても、その後の人生でいくらでもやり残したことをできる」(注:実際には言うほど簡単ではありませんが)というふうに考えが転換されたわけです。

こんなふうに、自分の考えの変化を整理して書き出してみると、

自分が何に囚われ固執していたのか?
それは何に起因していたのか?

ということが見えてきます。

私の場合は多分、

部活でも、勉強でも、「何かに突出することが無かった」青春時代を経て
自分の才能への失望
何かに没頭している人、何かで突出している人への羨望

そうした思いがいらぬ拘りになっていたのではないかと思います。

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