小学生にとっても中高生にとっても、お盆を過ぎると夏休みの終わりを意識する頃かなと思います。
チリ太郎は今さらながら、
チ:そろそろ課題もやらなきゃな…。研修旅行の課題も進めなきゃな…。
なんて言っています。
青:夏休み序盤にも同じこと言ってたよね
妻:もう夏休み終盤なんですけど
なんてやりとりは、どこのご家庭も同じかなと思っています。
さて、そんな我が家の近況はさておき、今日は少し中学受験のことを書いてみたいと思います。
中学受験における夏休みは「天王山」などと言われたりもします。
私は半分ぐらい「それは学習塾がそう位置付けているだけでしょ。夏期講習の販促のために」と思いつつ、もう半分は
「とはいえ、1ヶ月半程度の自由時間の使い方は重要だし、そこにご家庭の教育方針、カラーみたいなものが出ますよね」
とも思っています。
塾などを活用するにしても、家庭学習メインでいくにしても、皆、「この期間に最良の学習成果を上げたい」と思っていると思います。
もちろん、これは夏休みに限った話ではありません。
受験を決意する前も後も、親というのは子供の学習に関心を持ったなら「(費用や労力の範囲で)最良の成果」を欲するものだと思っています。
そういった意味では、夏休みだからといって特別なことはないのです。
塾に通っている人は塾の授業に集中し
家庭学習メインの人は家庭学習の時間が延びるだけです
私はむしろ、普段より自由になる時間が多いゆえに生じるリスクの方が心配ですね。
普段通りやれば普段どおりの効率で学習が進むのに、夏休みだからということで変に迷走してしまい、却って効率を下げてしまうケースがあると思っています。
私が思うリスクというのは
・勉強をさせ過ぎるリスク
・穴埋め、基礎に拘りすぎるリスク
私はこの2点は、チリ太郎の受験勉強期間を通じてずっと気を付けていました。
○勉強をさせ過ぎるリスク
夏休みになると、学校の授業時間が無くなり自由な時間が増えます。
受験生を持つ家庭はいきおい、「1日○時間、期間通算○千時間」みたいな目標を立てがちです。
なかには、塾主導でこうした学習を時間で量るような目標を立てているケースもありますよね。
確かに、「量を見える化し、それをクリアすることで本人の自信につながる」という面はあると思います。その精神的な効果というのは否定しません。
「君たちは夏にあれだけやったのだから、他の誰よりも努力したと言える。だから自信を持て」みたいなヤツですね。
でも、私的には「学習ってそんなものかな?」という疑問があります。
もちろん、「学習の成果を決定する要因はとにかく勉強量(勉強時間)に尽きる」ということであれば、ひたすら勉強した方がよいですね。でも、そうしたデータってあるのでしょうか?
例えば、「夏休みに勉強時間を確保した人の成績が最も伸びていた」「勉強量と成績の伸びは正比例の関係にある」みたいなデータがあるのでしょうかね?
推測の域を出ない話ですが、そこはやはり「生活のバランス優先」であり、もう少し言えば「勉強ありきの生活」ではなく「生活の中に勉強がある生活」を継続すべきなのかなと思います。
「学校が無いから6時間ぐらい自由時間が生まれる。だから勉強時間が6時間増える。」
のではなく
「6時間自由時間が増えたら、普段できないことに2時間、遊びに2時間、親子の会話に1時間、勉強に1時間」みたいに、様々な活動に時間が振り分けられてしかるべきで、私はこちらの方がトータルでの学習効率が上がるのではないかと思っています。(証拠はありません)
○穴埋め、基礎に拘りすぎるリスク
もう1つ。知識の穴をふさぐことや、基礎への立ち返りに拘り過ぎた学習計画を立ててしまう。これも学習の効率を却って下げやしないかと疑っています。
子供の勉強を詳しく見ている人ほど子の様子に敏感です。
そして、
成績が思ったほど振るわない。
皆が解ける問題で躓いている。
何度も同じ間違いをする。
というようなことを感じると、「基礎に問題があるのではないか?」「知識に穴があるのではないか?」という考えを持ちがちです。
その結果として、
「夏休のように時間があるときに、基礎固めや知識の穴埋めをしょう」
という発想になります。
この考えは完全に間違っているとは思いませんが、教科の種類とか、その子の発達度合いや性格とか、様々なことを考慮して結論付ける問題だと思います。
そもそも、塾のカリキュラムに少し置いていかれてしまっているだけのことですから、大騒ぎすることではないのですよね。
塾のカリキュラムなんていうのは塾が勝手に決めているものです。
その狭い範囲を完全習得することにどれほどの意味があるのかなと疑問を持ちます。
知のフィールドは塾のカリキュラムなどより遥かに広く、魅力的なものです。
本来楽しいはずのものを、わざわざつまらない範囲・方法に限定して学ぶ必要がありますかね?
特に強調したいのは、
子供の性格も様々なところ、
「決められた範囲をしっかりと完璧にしたい」というタイプの子と、
「自分の興味を前面に出す」「人に決められたものを嫌う」タイプの子がいると思います。
後者のタイプの子にとって、基礎学習ほど苦痛なものはないです。
そういう合わない学習法を強いられるというのは、本当に不幸な話だと思います。
実は私も、こうしたカリキュラム重視みたいな考えを持っていた時期がありました。
チリ太郎は通塾開始時期が5年生の9月頃と周りより少し遅かったですし、大手の学習塾にも所属していませんでした。
ですので、「絶対に基礎的な知識の漏れ、カリキュラムに対する学習の遅れがあるはず」「時間のとれる時期に(比較的早期に)知識の総ざらいや苦手教科の基礎学習をしなければならない」ということをずっと思っていました。
今思えば、これは本当に「親の決めつけ」だったと思います。
結局、チリ太郎はそうした知識の総ざらいとか、基礎に立ち返っての勉強というのはしないまま、中学受験を走り終えました。
多分、長く通塾していた子に比べれば、知識の量とか、カリキュラムの習熟度という面で最後まで劣っていた部分があったと思います。
しかし、総合力が高かったから志望校に合格できた。
その総合力はどこで培ったのか?
これもう、普段の生活の中で彼が感じたこと、考えたことなんですよね。
中学受験は「特定の塾のカリキュラムの習熟度」を競うものではありません。
もちろん、カリキュラムどおりの学習が合理的であり、合格への近道であることは確かだと思いますが、決して1本道ではありません。
ですから、仮に受験の成果が芳しくなかったとしても、「塾のカリキュラムがうまくこなせなかったことが致命傷になった」みたいな総括はすべきじゃないと思います。
あくまで、本番はその子の総合力が測られるものだと思いたいなと。
私の願望と言ってしまえばそれまでですけどね。
有名学校がわざわざ独自の入試を課しているのは、
SAPIXの申し子、早稲アカの申し子みたいな子供を集めたいのではなく、普通に勉強を楽しむ伸びやかな才能を求めているのだと
だから、塾のカリキュラムなどという狭い範囲に囚われず、その子が持っている興味をどんどん広げていくよう導くべきなのだと
そう思いたいものです。